ミシガン大学公共政策大学院留学記: 不眠症・精神の潤い・村上春樹

2010年1月26日火曜日

不眠症・精神の潤い・村上春樹

最近、少し不眠症気味。学期が始まってから久々に大量の英語を読んで疲れるので、毎日昼寝をしたりしているせいもあるのか、夜全然眠れない。最近午前3時を過ぎても寝つけることはほとんどない。昨日は昼寝もせずに午前1時に寝たのに、早速朝5時に目が覚めてしまった。問題はやっぱり睡眠時間が短いと、昼間は眠いという一言につきるのだが。

よくよく考えてみれば、昔から寝つきが悪いのは事実で、就職してから激務でその事実を忘れていただけなのかなと。東京にいた時はよっぽど暇じゃなければ、日付が変わってから帰宅し、それから遅くまで小説を読んだり、職場ではできない勉強をしたりと、年がら年中睡眠不足で体を痛めつけていて、寝つくというより気を失うというのに近かったので。留学生活は当然そんな無茶苦茶な暮らしぶりではないので、不眠症再発、というわけなのではないかと。

あと最近勉強ばかりでQOLが低いことを懸念して、寝る前に本を読むせいで、更に寝つけなくなっているのかも。現在は、Paul Collier, The Bottom Billionを査読中。本当は小説とか精神に潤いを与えるものをもっと読んだ方がよいと思うのだけど、ここは敢えて趣向を変えてということで。昔はよく村上春樹を読んで、癒されていた。まあ、仕事から帰ってきて、新刊を手に気がついたら日が昇っていたというのは、社会人としてどうなんだと思わなくもないけど。

そういえば、以前友達に借りて読んだ「1Q84」について少し感想を(ネタばれありなので、それでもよい方だけ続きをどうぞ)。実は僕自身この作品を読み終わった後、悪くないんだけど村上春樹らしくない小説だなという感想を持っただけで、少しもやもや感が抜けない。

この小説が変わっているのは、いわゆるハルキ語が使われていないこと。これは今までの作品と違って、主人公の男が、表面上器用に生きているけど、内面で激しい欠落を感じていて、物事を醒めた目で客観的に描写する、というタイプの人間(多分に御本人の似姿だと思うが)として描かれていないからか。

そうこう考えていると、実はこの小説、村上春樹が書いた小説の中で女性が主人公である初の作品なのでは、とはたと気付いた。この小説は、主人公の男女それぞれの視点から交互に話が進んでいくが(二つの舞台設定と交互のストーリテリングはもはや村上春樹の古典芸能ですかね)、実は今回の作品は女性の主人公の内面が「主観的に」書かれた初めての作品ではないかと。いつもであれば、「僕」が認識する彼女の気持ちでしかなかったものが、主観的に語られている。だから、いつもと違って、他の作家が書く小説に近いように見えるじゃないかなと。

どうやら続巻が出るらしいのだけど、あの終わり方でいいのではないかと。青豆(主人公女性)があそこで死んだか、死なないかはそれこそ読者の解釈に幅を持たせた方がよいのでは。続刊はどちらかの可能性を否定してしまうことになりかねないので。もちろん、ラストシーン以前の別のエピソードを書くという手もありますが。

なぜ解釈の幅があった方がいいかというと、ただ個人的に曖昧な方が好きだからっていうのもあるけど、二人の本当の運命はまだわからないというギリギリのラインで終わるのが色々夢想できて楽しい。舞台設定として二度と交わることのない二つの世界が用意されているけど、これって現実における運命論を言い換えていると僕は考えていて(注)、最後の最後で交わりそうな運命が交わらず、絶望した青豆が自殺を図ろうとするけど、でも自殺が上手くいったかどうかがわからないというラインが、まだ現在進行形で生きている、ひいては運命にとらわれているかよくわからない僕たちにとっておもしろいと感じられるんじゃないかと。

だから、続刊が出るとしても、あれ以降の話が続くのであれば、「終着駅はここです」と言われているようで残念な気持ちにさせられてしまうのではないかと気を揉むわけで。もちろん、いい意味で期待を裏切ってくれるのではないかと願っていたりもするのだけど。

(注)この解釈の根拠として、主人公男性が不倫している人妻との会話ではたと気づく次のような一節がある。
「過去をどれほど熱心に綿密に書き換えても、現在自分が置かれている状況の大筋が変化することはないだろう。時間というものは、人為的な変更を片端からキャンセルしていくだけの強い力を持っている。それは加えられた訂正に、更なる訂正を上書きして、流れを元どおりに直していくに違いない。」

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